MENU

閉じる

閉じる


トップ > 行政情報 > 村の紹介 > 歴史

歴史

更新情報

歴史

三宅島は「歴史の島」と言われています。現在でも多くの伝説や神話が残っており、その歴史は古く、中世以前に開村された島であると、三宅島開島の物語「三宅記」からは読みとることができます。

三宅島の名前の由来

三宅島の名前の由来には、いくつかの説があります。島のかたちを家三つ並んでいるように見立てて三宅島とした「家三つ説」、式内社が12社もあることからお宮を象徴とした島名「宮家島」を起源とする「式内社説」、「南方海島志」に記されているように火山の噴火が多いことから島名「御焼島」を起源とする「御焼島説」など、その歴史が古く、文献により説が異なることから、ひとつに絞ることはできず、三宅島にはいくつもの名前の由来が残されています。

伝説と神話

三宅島には、神々を主人公としたいくつもの伝説や神話が残されており、この伝説や神話の多くは、「三宅記」に記述されています。「三宅記」の著者が僧侶や修験道の行者(山伏)と推測されていることから、神道を背景として神々を主人公とした多数の伝説や神話が残っているのでしょう。それらの伝説や神話のなかで、ここでは「大蛇退治」のお話に少し触れておきます。

むかし、箱根芦ノ湖畔に老漁夫が住んでいました。この漁夫には三人の娘がいましたが、ある日あまりにも不漁だったので、この漁夫は大漁にしてくれれば娘を一人やってもよい、と独り言を言ってしまいました。その独り言を湖底の大蛇が聞いており、漁夫は大蛇に三女「佐岐多麻の姫」をやる約束をさせられてしまいます。約束の日、三女は鳩になって富士山に逃げ、ここで三島大明神に出会い、三宅島雄山まで飛んでいきました。追いかけてきた大蛇に、三宅島の「天地今垢」子神「安寧子」・「満寧子」の二神が酒と飯を大蛇に与え、ぐっすりと眠ったところを、新島の二人の王子と後見役の「剣の宮」とで大蛇を切って、退治しました。その後、漁夫の三人の娘は大明神の垢となり、島の方々に配置して、村作りを開始するというお話です。

壬生家

平安時代初期、来島したとされる壬生氏は、三島大明神を奉り、大明神の代官として集団来島し、初代壬生御館から始まり、その後島長・神官としておよそ1000年にわたり三宅島の祭政を統治してきました。壬生氏は三宅島の神々を三島大明神の后神・子神に再編し、代表神に雄山噴火を祀る富賀神社(とがじんじゃ)を仕立て、石の築地を作るなどしました。また壬生氏は海上交通の能力を持ち、伊豆国との交易や行政的な連絡を行い、その勢力を保持したものとみられています。

噴火の歴史

三宅島は古来、伊豆諸島の中で最も噴火の多い島として有名です。およそ3000年前に大規模な噴火が起こった形跡があり、雄山山頂のカルデラは、この大噴火によってできたものではないかといわれています。最古の記録として応徳二乙丑年(西暦1085年)に噴火があったことが「壬生家系図」に記されています。また、天武13年(西暦684年)から明治7年までに噴火の回数を13回としている説もありますが、奈良・平安初期頃の記録がなく、実際には噴火した回数はもっと多いと考えられています。

三宅島の神社

三宅島には神名帳に記載されているだけで、70社もの神社があります。現存しながら記載されていないものを含めると100社以上の神社があり、その中でも特に噴火に関する神社が多く、昔から島民は自然災害を神に信心することで克服してきたことがよくわかります。静岡県三島市の三島大社の本宮である富賀神社(とがじんじゃ)、伝説にも登場する三島大明神の3人の后が祀られている御笏神社(おしゃくじんじゃ)、后神社(きさいじんじゃ)、二宮神社などが代表的な神社として有名です。

流人の島としての歴史

三宅島は江戸時代には他の伊豆諸島の島々とともに、罪人を島流しにする流刑地として使われました。その数は、明治時代初期までに2300人ものぼると言われています。三宅島の流人としては、絵師の英一蝶(はなぶさいっちょう)や博徒の小金井小次郎、国学者の竹内式部、宗教家の井上正鐵(いのうえまさかね)、歌舞伎役者の生島新五郎(いくしましんごろう)など歴史上の有名人も少なくありません。

特に江戸時代中期の歌舞伎の人気役者であった生島新五郎と江戸大奥の女中である絵島との密会疑惑を発端とし、大奥の権力争いを背景に江戸中を巻き込んで1000人以上の処分者を出す大スキャンダルに発展した「絵島・生島事件」は有名で、この事件を題材に「大奥」として2006年に映画化もされました。

お問い合わせ

三宅村役場臨時庁舎
〒100-1212 東京都三宅島三宅村阿古497
TEL:04994-5-0981(代表)